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昔日「皇室国寺」が今日に風采を再現する。
2008-01-21 15:02:38  作者:崇聖寺三塔文化観光地事務所  出所:崇聖寺三塔文化観光地  Hits:57  
    わが国古代史上で、帝王が出家したことはめったになかった。だが、宋代地方政権「大理国」22人の国王のうち、9人が崇聖寺に出家し修行したことがある。大理国第一世国王段思平は仏教が非常に好きだったから、『南詔稗史』に彼は仏が好きで、年々お寺を修築し、仏像を万体鋳造したと記載している。第一世国王段思英は即位してちょうど1年のときに、崇聖寺に和尚になった。この9人が出家した経緯がそれぞれだったが、場所はすべて崇聖寺であった。     
 なぜならば彼らは崇聖寺に出家しただろうか?唐代南詔国時代に築いた崇聖寺は「王様寺院」であるから、東南アジアで「仏都」と称されている。    
 この「王様寺院」である崇聖寺はどんな様子だろうか?『大理県志稿』に崇聖寺は三塔寺ともいい、大理城西北にある蒼山の小岑峰の麓にあり、周囲の長さが3.5㌔、300畝(20万平米)あまり、境内に雨銅観音像があり、高さが8.6㍍、仏像が11,400体、部屋が891つあると記載している。     
 境内にある主塔が別名で、千尋塔と呼ばれ、69.13㍍の高さ、方形13層の密集した軒下レンガ塔である。後ろに南北にある小塔は43㍍、八角形の10層楼閣式レンガ塔である。三塔は渾然として一体をなしていて、気勢が壮大であり、大理の目印とシンボルである。   
 大理三塔崇聖寺の修築については、一つ目は南詔国時代の南詔国王は「仏陀」を信仰して修築したら、迷妄を断ち,真理を悟って仏果菩提を成就できる。二つ目は昔の大理は水害が多く、古典籍に“大理旧為竜沢,故為此鎮之”が書いてあり、唐開元時代(713年)に三塔を築いたから、広大な崇聖寺を築き続け、南詔国王は常に東南アジア国家の国王といっしょに寺に線香をし、礼拝したから、崇聖寺が「皇室国寺」になった。    
宋代「大理国」時代に、更に仏教を推進し、崇聖寺のお参りが盛んであった。1056年、ミャンマー国王は2回崇聖寺に仏陀の歯を迎えに来て、大理国王段思廉が境内で翡翠仏像を贈った。明代有名な旅行家徐霞客は『滇遊日記』に“第十峰(蒼山の十九峰のひとつである)の麓にあり、唐開元時代に建て、崇聖寺と呼ばれた。三塔が鼎立し、真ん中の塔は最も高く、長方形で16層であるから、三塔ともいう。塔の周りに高くそびえる松がある。西に出て行くと、三塔と対峙する鐘楼がある。楼に鐘があり、音がおよそ40㌔まで聞こえる。楼の後ろに正殿があり、雨銅観音殿である”に記載した。「鐘震仏都」は大理で有名な10景のひとつになった。   
  だが、極彩色の美に輝く「皇室国寺」はなぜ神秘に消えてしまい、千年以上で三塔しか高くそびえていないだろうか?   
 『大理県志稿』により、明代に大理で強烈な大地震が発生し、崇聖寺が破壊された。「皇室国寺」はそれから消えてしまった。   
 20世紀80年代以来、相次いで崇聖寺を回復し再建してきた。1997年鐘楼を再建し、「建極大鐘」を鋳造した。それから、「倒影池」を修築し、「雨銅観音殿」などを再建し、三塔公園が国家級4A観光地になった。 
 2002年から大規模で崇聖寺を再建し、主要と副次の軸線を3本にし、8の台、9つの中庭、11階立ての計画を立ち、建設し、歴史に基づき、唐、宋、元、明、清歴代の建築の粋を集めていて、全体の建築敷地面積は40㌶で、建築面積は2.1万平方㍍ある。斗拱戸と窓及び細部の装飾は全部で紅チャンチンの木を使って、精細に彫刻する。中軸線の建物は最高の「金龍金鳳璽彩」を使用し、2本の副次線は穏やかで優雅な玄紫彩を使用する。境内には三塔の後ろから麓まで伸び、起伏し、奇抜で入り混じっていて、極彩色の美に輝き、気迫に満ちている。   
 崇聖寺仏像は宋代大理国画工張勝温の「張勝温画梵像巻」に基づいて、代理の多元文化、仏教禅宗と密宗の互換性の特徴によって彫像を配置した。建築群は細かくて白軽石と青草石を使用し、壁、地面、石段を敷いたり、貼ったりし、仏の土台石はすべて大理石漢白玉(大理石よりも少しきめの粗い白色の岩石)を使った。全体の建物に使う石材が整え、態度が堂々としていて、大理奇異な石文化の特色を体現している。  
  「皇室国寺」の崇聖寺の再現はわが省で有名歴史文化観光地と古代になぞらえるテーマ公園になった。
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